江戸の地における浮世絵の祖は菱川師宣(?~1694)と目されていますが、上方の地における浮世絵の源流は、京都の医師の家に生まれた西川祐信(1671~1750)にもとめることができます。祐信は主に肉筆画や浮世草子など絵本の挿絵を手掛けました。

 祐信以後、長らく上方浮世絵は肉筆画と絵本を中心に展開し、一枚摺り錦絵いわゆる浮世絵版画が継続的に刊行されるようになるのは、寛政3年(1791)に版行された流光斎如圭(りゅうこうさい じょけい、?~1810)の役者絵まで待たねばなりません。その後、如圭の弟子である松好斎半兵衛(しょうこうさい はんべえ、生没年未詳)が登場し、浅山芦国も才能を発揮しはじめ、半兵衛の弟子である春好斎北洲(しゅんこうさい ほくしゅう、生没年未詳)も加わり、文化文政期(1804~1830)には盛んに錦絵が大坂の地でも出版されるようになります。

 もともと歌舞伎役者の贔屓だった者が浮世絵師として活動していたという背景もあり、上方浮世絵における主要なジャンルは役者絵でした。版画の美人画としては、遊女や芸妓らが仮装して練り歩く「ねりもの」を主題とした作品がみられます。また、天保2年(1831)に作られた天保山(安治川浚渫の土砂を積んだ築山)が大坂における新たな名所となり、天保山を主題とした名所絵が次々に出され、上方絵においても風景画のジャンルが定着しました。

 明治以降は文明開化を題材とした作品が多く描かれ、明治3年(1870)に鉄橋に架け替えられた高麗橋(こうらいばし、通称くろがね橋)や蒸気機関車、神戸港を訪れる外国船等がモチーフとされました。しかしながら時代の移り変わりとともに、明治30年(1897)頃には上方浮世絵も終焉を迎えます。(曽田めぐみ)

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